2016年 01月 04日
さあ、世界史をかたろう。第18回 オリエント興亡史。 |
ヒッタイト帝国には、200条からなる楔形文字による法典があったという。法典があるということは、協議制による意思決定機関もあったとみるべきであり、それがヒッタイト帝国の隆盛につながったとも解せよう。必ずしも、鉄の製造方法を知っていたという理由だけではなさそうである。
エジプト王ネコの時代にフェニキア人ハントという者がアフリカを周航したという伝説があるそうである。周航というからには、喜望峰も回ったのであろう。バスコ・ダ・ガマの喜望峰発見に先立つこと2500年前である。ガマの冒険は、こうした伝説に触発されたとも受け取れるのではないか。
ピラミッドの建設はエジプト人にとっては、国民的合意であったかもしれないが、ユダヤ人にとっては苦役以外なにものでもなかった。それゆえ、エジプトを脱出することになるが、脱出を認めることはファラオにとって、エジプトの国民的合意を否定されることになる。だからこそ、ラムセス三世はモーゼを追って紅海にまで、行かなければならなかった。
商業の発展と迅速な軍事行動にとって、最も重要なことは道路網の整備である、ということに最初に気づいたのはアッシリアであろう。そのアッシリアの遺産を帝国建設へと結びつけたのは、ペルシャのキロス二世とダリウス一世であろう。彼らの業績の内、合理的と評価できるには、徴税額をそれまでの王の任意によるものから、一定額の基準を定めたことではなかろうか。それからみると、ペルシャ帝国を単なる専制主義国家とみるのは、早計かもしれない。
エジプト王ネコの時代にフェニキア人ハントという者がアフリカを周航したという伝説があるそうである。周航というからには、喜望峰も回ったのであろう。バスコ・ダ・ガマの喜望峰発見に先立つこと2500年前である。ガマの冒険は、こうした伝説に触発されたとも受け取れるのではないか。
ピラミッドの建設はエジプト人にとっては、国民的合意であったかもしれないが、ユダヤ人にとっては苦役以外なにものでもなかった。それゆえ、エジプトを脱出することになるが、脱出を認めることはファラオにとって、エジプトの国民的合意を否定されることになる。だからこそ、ラムセス三世はモーゼを追って紅海にまで、行かなければならなかった。
商業の発展と迅速な軍事行動にとって、最も重要なことは道路網の整備である、ということに最初に気づいたのはアッシリアであろう。そのアッシリアの遺産を帝国建設へと結びつけたのは、ペルシャのキロス二世とダリウス一世であろう。彼らの業績の内、合理的と評価できるには、徴税額をそれまでの王の任意によるものから、一定額の基準を定めたことではなかろうか。それからみると、ペルシャ帝国を単なる専制主義国家とみるのは、早計かもしれない。
by milionpara39
| 2016-01-04 16:19
| 歴史分析
|
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