2016年 04月 04日
さあ、世界史を語ろう。第73回、科挙。 |
東晋王朝の人材発掘法は九品中正法であった。この方法では、地方有力者に縁故を持つ者でなければ、官僚として推薦される途はない。東晋を一つの企業としてみると、その業績が落ち込んだのは人材面からみて、縁故入社の社員しか採用してこなかったことにあると解してもよかろう。
さすがにこうした人材発掘方法の欠陥は次代の隋、唐においては、ある程度認識されていたのであろう。そこで、採り入れられた方法が実力主義による人材発掘法制度、即ち、科挙である。確かに、科挙は人材発掘という面では、成果を挙げることができたであろうが、そうであったとしても、完璧な透明性が備わっていたかどうかは疑わしい。
その受験資格を得るには国立学校の課程を修了しただけでは不充分であり、推薦をうけなければならないとされており、あるいはまた、地方の試験を合格しても、やはり、推薦を受けなければならないとされている。推薦という人の恣意にかかわる過程を経なければならないということでは、まだ、九品中正法の残滓が残っていたとみるべきであろう。
さすがにこうした人材発掘方法の欠陥は次代の隋、唐においては、ある程度認識されていたのであろう。そこで、採り入れられた方法が実力主義による人材発掘法制度、即ち、科挙である。確かに、科挙は人材発掘という面では、成果を挙げることができたであろうが、そうであったとしても、完璧な透明性が備わっていたかどうかは疑わしい。
その受験資格を得るには国立学校の課程を修了しただけでは不充分であり、推薦をうけなければならないとされており、あるいはまた、地方の試験を合格しても、やはり、推薦を受けなければならないとされている。推薦という人の恣意にかかわる過程を経なければならないということでは、まだ、九品中正法の残滓が残っていたとみるべきであろう。
by milionpara39
| 2016-04-04 15:27
| 歴史分析
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