2017年 01月 01日
さあ、世界史を語ろう。第165回 立憲君主制の終焉。 |
国王が逃亡したことにより、立憲君主制を自ら否定したとしても、それまで立憲君主制を支持してきた人達がいなくなってしまったわけでもないし、その影響力が消滅してしまったわけでもない。依然として、それはフランス国内で大きな勢力であることは間違いないのである。ただ、立憲君主制を否定し、共和制を指向する人達からの攻勢には、防戦一方になったのはやむをえなかったであろう。
その結果の最も大きな現われは、国王の処刑に同意を求められたことではなかろうか。そして、処刑に同意したことは、立憲君主制支持者として国王擁護派であったそれらの人々をも、自動的に対仏同盟の敵という地位に置くことになった。しかし、本来、国王処刑に本意でなかったそれらの人々が、対仏同盟軍と対等な戦いを国民から求められても、期待に応えられるはずもない。
そのうえ、国内経済がアッシリア紙幣の増刷によってインフレが加速されたとなれば、いよいよ国内での立憲君主制指向派の影響力は低下せざるをえない。
そして、そのように立憲君主派の影響力が低下するということは、その反作用として、共和制指向派が単なる批判勢力としての地位から、いよいよ、政権担当者としての地位に上昇することを意味する。そして、その政権実現が可能となったのは、中間派が共和制派を支持すると決めたときであり、その時から革命はいよいよ、その実態を備えていくことになる。
その結果の最も大きな現われは、国王の処刑に同意を求められたことではなかろうか。そして、処刑に同意したことは、立憲君主制支持者として国王擁護派であったそれらの人々をも、自動的に対仏同盟の敵という地位に置くことになった。しかし、本来、国王処刑に本意でなかったそれらの人々が、対仏同盟軍と対等な戦いを国民から求められても、期待に応えられるはずもない。
そのうえ、国内経済がアッシリア紙幣の増刷によってインフレが加速されたとなれば、いよいよ国内での立憲君主制指向派の影響力は低下せざるをえない。
そして、そのように立憲君主派の影響力が低下するということは、その反作用として、共和制指向派が単なる批判勢力としての地位から、いよいよ、政権担当者としての地位に上昇することを意味する。そして、その政権実現が可能となったのは、中間派が共和制派を支持すると決めたときであり、その時から革命はいよいよ、その実態を備えていくことになる。
by milionpara39
| 2017-01-01 14:48
| 歴史分析
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